最終更新日:2026-09-14
「1年間残ってほしい」と言われたら?引継ぎ期間に売り手が行う業務を解説
M&Aの交渉が進む中で、買い手から「クロージング後も、1年など一定期間、引継ぎに協力してほしい」と言われることがあります。この一言だけでは、実際に何を求められているのかが分かりません。一部の顧問先への挨拶回りに同行する程度なのか、それとも実質的にフルタイムで事務所に居続けることを求められているのかで、引き受けるかどうかの判断はまったく変わってきます。
この記事は、事務所承継を考え始めるタイミングとはで「道2(第三者承継)」に近いと感じている方向けに、引継ぎ期間に売り手が実際に担うことになる業務を具体化するものです。
引継ぎの中身は、譲渡を引き受けるかの判断を左右する
「事務所を譲れば、その場で身軽になれる」というイメージで検討を始めると、実際の契約交渉の段階で「思っていたより長く・重く関わることになりそうだ」というギャップに直面しかねません。
健康上の理由で急いで譲渡先を探している方にとっては、特にこの点が重要になります。引継ぎ期間の関与が軽ければ早期に完結できますが、重ければ譲渡後も一定期間、事務所に関わり続ける前提で計画を立て直す必要が出てきます(緊急性が高いケースでの優先順位の付け方はこちらの記事で扱っています)。
顧問先に対して売り手が担う4つの業務
以下の業務は、いずれも顧問先の個別情報を伴います。税理士には税理士法上の守秘義務があり、顧問先の情報を買い手側に渡すには、原則としてその顧問先本人への説明と同意が前提になります。同意が得られていない段階で、買い手を顧問先に個別に紹介したり、顧問先固有の情報を伝えたりすることはできません。ここでは、必要な説明・同意のプロセスを経た後に生じる業務として整理します。
顧問先への紹介・同行
長年の付き合いがある顧問先に対して、新しい担当者(買い手側)を紹介する業務です。単なる名刺交換の同席ではなく、これまでの所長の信用を新しい担当者に橋渡しする役割を果たします。進め方は一様ではなく、重要度の高い顧問先には個別に面談へ同行する一方、それ以外の多くの顧問先には書面やメールでまとめて通知するなど、対象に応じて方法を使い分けるのが実務上一般的です。大口の顧問先の場合は、複数回の同行を求められる可能性があります。挨拶回り全体を買い手側がどう設計するかはこちらの記事で扱っています。
属人的信頼の引き渡し
顧問先ごとの経緯・特有の事情・過去のやり取りの背景など、書面には残りにくい情報を新しい担当者に伝える業務です。「この顧問先は繁忙期に連絡が付きにくい」「この顧問先は過去にこういう経緯でこの処理をしている」といった、長年の付き合いの中で蓄積された情報の引き渡しにあたります。マニュアル化しにくい性質上、対面での説明や同席でのやり取りに時間がかかりやすい業務です。私的な事情や第三者に関する情報が混在することもあるため、どこまで伝えるかの範囲にも注意してください。買い手側がこの情報をどう受け取り、自分自身の信頼として積み上げていくかはこちらの記事で扱っています。
顧問先からの「なぜ売ったのか」への回答
顧問先への伝え方は事務所によってさまざまで、必ずしも「事務所を譲渡しました」と明言する形になるとは限りません。「体制を強化しました」「担当が増えました」といった伝え方にとどめることもあります。それでも、担当者が変わったこと自体には気づかれるため、経緯を尋ねられる場面は起こり得ます。回答の仕方によっては、顧問先の不安を煽り、解約につながることもあれば、逆に安心材料になることもあります。事実に反する説明を作るという意味ではなく、開示する内容や、誰がどの質問に答えるかといった役割分担は、個々の対応の巧拙以前に、買い手側と事前にすり合わせておくべき論点です。
解約を検討している顧問先への対応
引継ぎの過程で、一部の顧問先から解約や他事務所への切り替えの意向が示されることがあります。強引に引き止めるという性質のものではなく、実際には、担当が変わることへの不安や疑問を確認し、必要な説明を尽くすという対応が中心になります。この対応を売り手がどこまで担うのかは、契約で明確にしておくべき点です。「引継ぎに協力する」という抽象的な合意だけでは、こうした個別対応まで含まれるのかが曖昧なままになります。ここで売り手が担えるのは、事情の説明や面談への同席といった協力にとどまり、顧問契約を継続させるという結果そのものを保証できるものではありません。顧問先には契約先を選ぶ意思があるため、この点は結果責任ではなく協力義務として契約上も位置づけておくことをおすすめします。買い手側が離脱の兆候にどう向き合い、どこまで引き止めるべきかはこちらの記事で扱っています。
関与の軽重で、必要な準備は大きく変わる
同じ「引継ぎ協力」という言葉でも、実際の負担は事務所の規模や買い手の方針によって大きく異なります。
| 観点 | 軽い関与のパターン | 重い関与のパターン |
|---|---|---|
| 頻度・拘束時間 | 必要な場面に限定して対応する | ほぼ常駐に近い形で、実務全般に継続的に関わる |
| 期間の目安 | 数か月程度で区切りをつけやすい | 1年以上に及ぶこともある |
| 対応する顧問先の範囲 | 特に重要な一部の顧問先に絞る | 顧問先全体への対応を求められる |
| 解約検討時の対応 | 買い手側が主体的に対応し、売り手は事情説明への同席にとどまる | 売り手が、顧問先の懸念確認・説明まで担う |
| 対価・契約形態の一例 | 譲渡対価に含める形で設計されることもある | 別途の業務委託契約として切り出されることもある |
対価が譲渡対価に含まれるか、独立した報酬になるかは、負担の軽重だけで自動的に決まるものではなく、契約上の対価配分・引継ぎ業務の独立性・支払条件・実際に行う内容によって判断されます。上表はあくまで実務上よく見られる組み合わせの一例です。
特に、ほぼ常駐に近い形で買い手の指揮命令の下で稼働する場合、契約書の名称を「業務委託」としただけでは、その法的な性質が確定するわけではありません。実態次第では労働関係法令・社会保険・源泉徴収等の検討が必要になることがあるため、常駐に近い関与を想定する場合は、契約形態そのものを専門家に確認しておくことをおすすめします。
いずれのパターンでも、対応の範囲・期間・対価は口頭の合意だけで済ませず、契約書に明記しておくことが重要です。実際の負担がどちらのパターンに近いかは、交渉の早い段階で買い手にはっきり確認しておくことをおすすめします。
契約に落とし込むときに曖昧にしないこと
「引継ぎに協力する」という表現だけの合意は、後になって双方の認識のズレを生みやすい典型的な原因です。契約書に落とし込む際は、少なくとも次の点を具体的に定めておくことをおすすめします。
- 対応する顧問先の範囲(全件か、一部の重要顧問先に限るか)
- 想定される頻度・1回あたりの時間・全体の期間、連絡可能な時間帯
- 解約を検討している顧問先への対応を、どこまで売り手が担うか(結果責任ではなく協力義務として)
- この期間の業務に対する対価の有無、および対価の性質(譲渡対価に含めるか、別建ての報酬とするか)
- 想定を超える対応を求められた場合の、追加報酬や事前承認の要否
- 健康状態の悪化など、やむを得ない事情が生じた場合の中断・終了条件
対価を別建てにする場合、その扱いは事務所の譲渡対価そのものとは性質が異なる場合があります。具体的な税務上の扱いは個別の事情によって変わるため、契約設計の段階で顧問税理士等に確認しておくことをおすすめします。
スタッフへの実務引継ぎも、並行して発生する
この記事では顧問先に対する業務に絞って扱いましたが、スタッフにいつ・どのように売却を伝えるかという告知の設計自体は、離職リスクに直結する別の重要な論点であり、こちらの記事で詳しく扱っています。
まとめ
- 引継ぎ期間に何を求められるかは、譲渡後の実務の話ではなく、譲渡を引き受けるかどうかを左右する検討材料
- 売り手が担う業務は主に、顧問先への紹介・同行、属人的信頼の引き渡し、売却理由の説明、解約を検討している顧問先への対応の4つに分けられる
- 関与の軽重によって必要な準備は大きく異なる。早い段階で買い手にどちらに近いかを確認しておく
- 「協力する」という抽象的な合意のままにせず、対応範囲・頻度・期間・対価を契約書で具体的に定めておく
監修
税理士事務所承継ラボ編集部(公認会計士・税理士)