最終更新日:2026-09-14
税理士事務所を個人のまま譲渡すると、手取りはいくら残るか?雑所得課税の仕組み
M&Aの仲介会社から提示される見積もりには、「譲渡額」の目安が示されます。しかし、そこから実際に手元に残る金額(手取り)は、税金を引いた後の話です。一般的な会社(株式)のM&A解説記事の多くは、譲渡益に軽めの税率(申告分離課税・約20%)がかかる前提で書かれていますが、個人の税理士事務所の場合、この前提は当てはまりません。この記事では、なぜそうなるのか、実際にどれくらい引かれるのかを整理します。
結論:個人の税理士事務所の譲渡対価は「雑所得」に区分される
個人で営んでいる税理士事務所を譲渡し、顧客(顧問先)を引き継いでもらう際の対価は、「雑所得」に該当し、総合課税の対象になるのが基本的な整理です。事業会社の株式譲渡やM&Aで語られる「譲渡所得・分離課税(約20%)」には該当しません。
根拠になっているのは、次のような一次情報です。
- 国税庁通達(昭和42年):税理士事務所の顧客を他の税理士等に引き継いだ際の対価は、得意先のあっせんの対価として「雑所得」に該当するとされています
- 裁決(平成22年):税理士事務所を他の税理士に承継した際の対価について、雑所得に該当すると判断した裁決が出ています
- 静岡地裁判決(平成25年5月10日):個人で税理士業務を営んでいた譲渡人が、対価を譲渡所得として申告したところ、課税庁から雑所得該当として更正処分を受け、裁判所も雑所得と判断した事案です
譲渡所得にならないのは、業務が一身専属的だから
事業会社が営業権を売却する場合、営業権は資産として譲渡所得の対象になり得ます。一方、税理士業務は一身専属性の高い業務で、顧客との関係は委任契約と個人的な信頼関係の上に成り立つものです。この考え方のもとでは、顧客との関係は「譲渡できる資産」ではなく、単なる「紹介」として扱われます。これが、事業会社の営業権譲渡と税理士事務所の顧客引継ぎとで、税務上の扱いが決定的に異なる理由です。
なお、実務解説の中には、対価が「事業所得」として扱われた事例に言及するものもあります。ただし本記事で確認できた一次情報の範囲では、事案の特定までは行えていません。仮に事業所得に区分される場合でも総合課税である点は変わらないため、税額そのものへの影響は限定的と考えられますが、事業専従者控除や損益通算の可否など細部で扱いが異なることがあります。自分のケースが雑所得・事業所得のどちらに該当するかは、必ず第三者の税理士(自分自身の判断だけに頼らず、利害関係のない立場から確認してくれる専門家)へ確認してください。
総合課税では、他の所得と合算して税率が決まる
総合課税とは、事業譲渡の対価だけを取り出して税率が決まるのではなく、その年の他の所得(給与所得・事業所得など)と合算した金額に対して、超過累進税率が適用される仕組みです。
所得税は、課税所得の水準に応じて次の7段階の税率で計算されます(令和8年時点)。
| 課税される所得金額 | 税率 | 控除額 |
|---|---|---|
| 195万円以下 | 5% | 0円 |
| 195万円超330万円以下 | 10% | 97,500円 |
| 330万円超695万円以下 | 20% | 427,500円 |
| 695万円超900万円以下 | 23% | 636,000円 |
| 900万円超1,800万円以下 | 33% | 1,536,000円 |
| 1,800万円超4,000万円以下 | 40% | 2,796,000円 |
| 4,000万円超 | 45% | 4,796,000円 |
これに加えて、住民税(概ね一律10%)と、所得税額に上乗せされる復興特別所得税等がかかります。最も高い税率帯に達すると、その部分にかかる税率(限界税率)は、所得税45%+復興特別所得税等+住民税10%を合わせておよそ55.9%になります。これが、「最高約55.9%」と言われる数字の内訳です。ただし、これは課税所得全体にかかる負担率(実効税率)ではなく、超過累進税率の中で最も高い部分に適用される限界税率である点に注意してください。所得税は区分ごとに税率が変わる仕組みのため、課税所得全体を単純にこの税率で掛けると、実際より過大な税額になります。
手取りは、対価から必要経費を引いた所得で決まる
正確な税額は、対価そのものではなく、そこから必要経費を差し引いた所得を基準に計算します。税理士事務所の顧客引継ぎのような取引では必要経費が小さいことが多いとされますが、ゼロとは限りません。さらに、その年の他の所得(事業所得・給与所得など)と合算した金額に、上の速算表を当てはめて所得税額を計算し、そこに復興特別所得税等・住民税を加える、という流れになります。
ここで見落とされがちなのは、事業譲渡の対価だけを見て税率を判断できない、という点です。総合課税である以上、税率はその年の合計所得金額全体で決まるため、「対価×税率」という単純な掛け算では実際の税額を求められません。必要経費の範囲、所得控除(基礎控除・社会保険料控除等)、他の所得の状況によって最終的な税額は大きく変わるため、具体的な試算は、必ず第三者の税理士に依頼してください。この記事はあくまで、総合課税という仕組みそのものを理解するための入り口です。
よくある疑問:「顧問先を分けて、複数年で段階的に譲渡すれば節税できるのでは?」
総合課税は年ごとに完結する計算だと分かると、「一度に全部を譲渡するのではなく、例えば今年はfreee利用の顧問先だけ、来年は弥生利用の顧問先だけ、というように段階を分けて譲渡すれば、それぞれの年の税率区分を抑えられるのではないか」という発想も出てきます。
結論から言うと、この発想自体は理にかなっています。同じ総額の対価でも、1年でまとめて受け取るより複数年に分けて受け取るほうが、各年の税率区分を低く抑えられ、合計の税負担が軽くなる可能性があります。ポイントは、1つの契約の支払いを分割払いにすることではなく、顧問先グループごとに、別々の年に、別々の独立した取引として譲渡することです。それぞれの取引がその年に完結する以上、税率区分への影響も年ごとに独立して考えられます。
ただし、実行のハードルは軽くありません。
- 顧問先だけでなくスタッフの切り分けも必要になることが多い:特定のスタッフが特定の顧問先グループだけを担当している(例:クラウド会計の顧問先はこの職員しか対応していない)といった状況でない限り、顧問先を分けてもスタッフの担当までは分けられず、実務上は分割しづらくなります。この方法が現実的なのは、一人税理士か、スタッフの担当が顧問先グループごとにきれいに分かれている事務所に限られます
- 各年でそれぞれ買い手を見つける必要がある:1年目の買い手が見つかっても、2年目の買い手が見つかるとは限りません。見つからないまま事務所を縮小した状態で運営を続けるコストも織り込む必要があります
- 1年目の契約次第で、2年目以降の選択肢が制約されることもある:1年目の契約に、残りの顧問先の売却まで対象に含む先買権(相手方に優先的な買い取りの機会を与える条項)や競業避止条項が盛り込まれていた場合、2年目以降の売却先を自由に選べなくなることがあります。ただし、小規模な事務所間のM&Aでここまで踏み込んだ条項が入るケースは多くないと考えられ、優先度としては低めのリスクです
顧問先の切り分け方や契約上の留意点など、段階的な譲渡の進め方そのものはこちらの記事で扱っています。ここでは、総合課税の仕組みを理解していれば、この発想自体は有効な選択肢になり得るということだけ押さえておいてください。
まとめ
- 個人の税理士事務所を譲渡した対価は、雑所得に区分され総合課税の対象になるのが基本的な整理で、事業会社の株式譲渡のような分離課税(約20%)にはならない
- 総合課税の税率は、その年の他の所得と合算した金額で決まる。事業譲渡の対価の額だけを見て税率を判断しない
- 最も高い税率帯に達すると、その部分にかかる限界税率は、所得税・復興特別所得税等・住民税を合わせておよそ55.9%になる(課税所得全体にかかる実効税率ではない点に注意)
- 顧問先グループを分けて複数年にわたる別々の取引として段階的に譲渡すれば、各年の税率区分を抑えて合計の税負担を軽くできる可能性がある
- ただし、スタッフの切り分けが難しいことが多い、各年で買い手を見つける必要がある、1年目の契約次第では2年目以降の選択肢が制約されることもあるなど、実行には一定のハードルがある
具体的な税額は、事務所ごとの所得状況によって大きく変わります。この記事は考え方の入り口であり、実際の試算・判断は、必要に応じて第三者の税理士に相談することをおすすめします。
監修
税理士事務所承継ラボ編集部(公認会計士・税理士)